第6章|残された幸せ|林檎の木の下で|森の一葉のように|動き出した時間|変容|夢魔との戦い(1)(2)(3)(4)|マスターより|
1.残された幸せ
湖畔にひとり、モースは座り込んでいた。白い衣を膝までまくりあげ、両足を湖の中に投げ込んでいる。午後の陽光がきらきらと水面に反射している。モースは両手を後ろについて、ぼんやり空を眺めているようでもあり、遠くに思いを馳せているようでもある。その様子を近づきがたいように感じて、声をかけることができずにいたレイスだが、草むらを歩く音をモースに気づかれ、目が合ってしまった。
「どうしたの、子猫ちゃん」
「……お邪魔ではありませんか」
「ぜんぜん」
賢者はにっこり微笑んだ。レイスは恥ずかしそうに木陰から姿を見せ、モースの隣に小さくしゃがむ。髪をおさえながら覗き込むと、小さな魚たちが銀色の鱗をひらめかせながら、踊るように通り過ぎてゆくのが見える。レイスがそっと手をひたしてみると、湯冷ましのような温もりが伝わってきた。
「冷たくないのですね」
「うん」
ぱしゃ。ぱしゃ。レイスが手のひらを返すたびに、湖面にいくつもの同心円が、できては消えてゆく。
「フューガス様は?」
「ああ、さっきまでそこで泳いでいたんだけど。フューガスを探しているの?」
「いえ、その」
彼女の気持ちは、まだまとまらないでいた。夢魔や竜、《まことの国》を結びつける糸をつかんだように思うのだが、その考察にはどこか自信が持てずにいた。この結末を、知りたくないから? それとも、フューガス様が自分と似ているように思うから?
ディルワースの敵、夢魔を狩り出すために今、仲間たちが手を尽くしていることをレイスは知っていた。もうすぐ戦いがはじまる。夢魔との。《竜》との。自分の夢との。その場にはモースの力も必要とされるのだろう。自分にできることは少ないかもしれないけれど、それでもレイスは自分も居合わせようと思っていた。
「もうじき、すべてに決着がつく」
モースが呟く。レイスは、湖面に落ちる水しぶきを見つめている。
「僕らの尻拭いをさせてしまって、ごめんね」
「そんな」
「ずっと思っていたんだ。子猫ちゃんたちがやって来たから、僕は目が覚めた。あの日、あの森の家でいろんなことが動き始めた。嘘じゃないんだ。たまたまディルワースにやってきた、おせっかいな子猫ちゃんたちが、家を訪ねてきたことで……水滴が大河へと流れていくように、少しずつ変わっていったんだよ。なにもかもが。自分のしたことを振り返らずに忘れたままで、これまで生きてきたなんて、僕らはホントに大馬鹿だったよ。そして、目が覚めて初めて気づいた。わかるかい、子猫ちゃん」
レイスは目をぱちくりさせる。モースの横顔が、泣き出しそうに見えたのだ。
「怖いんだ」
「……賢者様」
「これからどうなるんだろうね。すべてに決着がついて……シャッセは本当のことを知って、迷子ちゃんも本当のことを知る。それでもあの子たちは、同じ選択をするのかな。僕らのつぐないを、認めてくれるのかな」
「怖いのはみんな一緒です。きっと」
「そう?」
ふふ、と無理に作ったような微笑で、モースは答えた。
「ありがとう、子猫ちゃん。キミは強いんだね。たくさんの時間を経てきただけ、人は強くなれるのかと昔は思っていたけれど……僕は違っていたみたいだ。キミは、キミ自身の持っている強さで、ここまできたんだね。えらいな」
「そんなこと、ありません」
レイスはふるふると細い首を振った。
きれぎれの記憶は、かつて彼女をさいなみつづけていた。荒れ狂う竜巻。降り注ぐ豪雨。破壊し尽くされた街。強いって、どういうことだろう。こんなに人を傷つけてしまうのに。自問しても答えは出ない。答えてくれる人も、いない。
泣きじゃくったその出来事の記憶さえ、このごろはもう靄がかかったように遠い。ディルワースは悲しみに優しいって、こういうことなのか。
「わたしがもっと強ければ、守ることができた方々がたくさんいました」
今はもう、レイスは淡々とただ言葉を紡ぐのみである。
「その《清流弦》のことだね?」
モースは彼女の宝物をそっと手にとった。滑らかな肌触りに精緻な水竜の彫刻。美しい音色で多くの人間を魅了してきたその竪琴は、はるか遠い国でつくられ、そこの王族から伽の褒美に下賜されたものだった。
「エシャンジュが喜んだだろうね」
「王妃様が?」
きょとんとしているレイス。
「彼女も音楽が大好きだったよ。自分でも楽士を呼んで、竪琴や笛を習っていたくらいだし。それにその竪琴は、エシャンジュの国でつくられたものみたいだからね」
「そうですか」
モースから《清流弦》を受け取ると、レイスはそれをそっと抱きしめた。愛しい子どもを抱くように。
「ならば……わたしもディルクラートさんと同じなのかもしれない」
来るべくして来たのだ。
(自分の居場所を見つけること。そうすればあなたは)
ずっとずっと昔、旅の始まりに耳にした言葉が、ふと頭をよぎる。
偶然にディルワースにたどり着いたのだと思っていた。自分が他の人よりゆっくり成長していること。はるか旅を繰り返し、そのたび出会いと別れを繰り返し、そのことに次第に麻痺していき。
ここには、同情も畏怖もない。大丈夫。レイスは澄んだまなざしで、傍らの賢者を見上げた。
「行こうか子猫ちゃん。僕の役割を果たしに」
「はい。わたしの役割を果たしに……」
立ち上がったモースが差し出した手を、レイスはぎゅっと握り返した。
2.林檎の木の下で へ続く

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