第6章|残された幸せ林檎の木の下で森の一葉のように動き出した時間変容夢魔との戦い(1)(2)(3)(4)マスターより

4.動き出した時間

「冷たいことをいうと思うかもしれないけどさ」
 《まことの国》の風を受けながら、ミスティ=デューラーは傍らに佇む青年を見やる。
「何をなすべきかなんて聞かれても、こっちは分かんない訳よ」
 切れ長の碧眼は、強気な言葉とは裏腹にとまどっていた。《竜》の血を引き、《竜》の力を持つ少年リーフは、《まことの国》に来ると同時に成人ともいえる姿に成長した。幼いころには琥珀色だった髪は、燃えるような赤毛に見える。こちらの姿が、あるいはリーフの本来の姿なのだろうか。彼が自分は人間だ、と言い張っていたこととも関係があるかもしれない。
「子どもならともかくさ、アンタもすっかりオトナになったってことはだよ」
 彼の外見は、成人男性にしては線が細く、面も柔らかい。女性では背の高い部類のミスティと並ぶと、ほとんど背丈が変わらなかった。
「どこへ行って何をするかってのはね、自分で……いい? じ・ぶ・ん・で! 決めることでしょうが」
 リーフは答えなかった。何かを思い出すように、顎に手をあて考え込んでいる。

 すっと尖った顎のかたち、意志の強そうな眉とまなざし。誰と似ているだろう? そこそこいい顔立ちをしている。だが、最近の若いのは、あれをやれ次はこれをやれと指示を出さなければ動こうとしないのか。まったくもって使えない。こんなのを部下に持つくらいなら、人員補充不要で給料を増やしてもらったほうがマシだ……ミスティはかつての立場をほぼ完璧に思い出していた。もっともいくらかは、《まことの国》に来る途中で欠落してしまってはいたが。
「リー……フ君」
「父さん!」
 ディルウィード=ウッドラフは、肩口の傷を押さえて横たわっていた。か細い呟きにリーフがかがんで、その半身を抱き起こす。
「大丈夫!?」
「ええ……」
 ディルウィードはゆっくりと、片手をついてあたりを見回した。無意識のうちに血のにじんだ手を広げる。癖になってしまった、指輪を確かめる動作。
 アメジストの指輪はちゃんと指にはまっていた。だが、その力はやはり発動しないままだった。魔法使いは唇をかんだ。
「おどき、リーフ。ちょっとディルウィード、傷、見せてごらん」
 ミスティが手際よく傷口のローブを裂いて、きれいな水で血をぬぐう。
「運がいいね。すごい出血に見えたけど、深くはないみたいだね。で、その指輪。そっちはだめだったのかい?」
「え」
 ミスティが、顎で指輪を示す。
「なんか、大事な力のあるヤツだったんでしょ。大丈夫なのかい」
「指輪……?」

 ディルウィードはきょとんとして、ミスティと、リーフの顔を見比べた。ふたりが心配そうに、彼を覗き込んでいる。
「父さんの指輪、大事な魔法の指輪だったんでしょう? もしかして、僕のせいですか? 力がなくなってしまったのは。だとしたら、ごめんなさい」
「リーフ君、何を謝っているんですか」
 申し訳なさそうにしゃがみこむリーフに、ディルウィードは首をひねる。もう一度、指輪に目を落とした。
「指輪……アメジストの……そう、これは僕のとっても大切な……何だったんだろう?」
「ちょっとちょっと」
 ミスティが思いっきり不愉快そうに、眉をしかめた。
「忘れちゃったの? アンタその指輪を後生大事にしてたじゃないよ。魔法陣の中であのピンクのふりふりと戦った時に、情けなーく焦ってたでしょうが」
「言い方がひどすぎませんか?」
 むっとした顔でディルウィードが反論する。
「情けないとか、そんなモノに頼ってとか……そんなふうに呼ばないでください」
 そんな言い方ができるのは、ミスティさん、貴女が強いから。十分に力を持っているから。それに見合う強い心を持っているから。
 僕には、どれだけのことができる? リーフも守れない。夢魔とも戦えない。指輪の力もない。
「僕にとっては、この指輪は大事な……」
 大事な、何だっけ。
 言葉はそれ以上続かなかった。


『悩むだけ、悩んだらさ、もう悩めなくなっちゃうもんだよ』
 夏のひまわりのように、輝く笑顔でそう言い放った少女がいた。
 その笑顔を見るたびに、ディルウィードの中でくすぐったいような、熱いようなものが目覚める。少年のように短くしていたあの髪も、時々彼女が見せた女らしさも、遠い日の大切な記憶だった。忘れたくない。
『それでも悩んでるって言うのなら、それはもう悩み自体をそれ以上、悩めなくなったことを悩んでるだけ。それに気付いたら悩みの螺旋なんて崩れてなくなるんだ』
 彼女に果たして悩みなどあったのだろうか。冒険者に憧れ、領主の息子と大喧嘩して村を飛び出したと聞いたけれど、ひょっこり戻ってきたらしい。今ごろは領主夫人として、相変わらず元気にやっているのだろうか。《忘却の砂漠》から無事に戻ってきたらしいから、元気は元気に違いないけれど。
 初恋の彼女の名前はたしか……。


 ディルウィードは、呆然として首を横に振りつづけた。
 ミスティが舌打ちする。
「やられたね。傷を受けたときだろう。リーフ、どうするか決めなさい。ふたつにひとつだよ」
「はい」
 ふたりの会話は、ディルウィードの耳には入っていない。
 何だったんだろう、僕の悩み。僕の指輪。僕の。
 たぶん、とっても大事なものだったんだ。だからあんなに指輪のことばっかり、考えていたんだ。あんなに、ずうっと、ずうっと指輪のことばかり。指輪をくれた人のことばかり。
「ひとつは、アンタの本当の両親を探して、この国の謎を解く。そしてもうひとつは、もう一度あのピンクのふりふりをぶん殴ってディルウィードの仇をとる。アンタは自分自身と対峙しなきゃならない」
 ま、これはリーフに限ったことじゃないけれど。
 と、心の中でミスティは付け加えた。
「僕が選ぶの?」
「当然でしょ。リーフがここまで来たいって言ったんだ。自分で決めなくてどうするの」
「僕……僕選べないよ。ディルウィード父さんだって大切だ。フィリス母さんのことも気になるし、両親がどうして僕から離れていってしまったのかも知りたい。だって、みんないなくなってしまうんだ!」
「リーフ」
 ミスティは、できるだけ優しい声を出すよう努力した。
「誰もアンタを追いていったりしない。私はリーフにこうしなさい、なんて言えない。みんな自分で決めるんだよ。でも、助言ならしてあげる」
 リーフはミスティをじっと見つめた。まなざしは子どものようだった。身体はどんどん大きくなっているのに、心は子どものままなのか。ミスティの心が苦しくなる。自分は誰かに置いていかれたことはない。でも、その時のまま心がとまっているのは、とても辛いことだと知っている。
 たぶん、あの小柄な吟遊詩人や、血の色の髪をもつ妖精も、同じ辛さを味わってきたのだろう。時の流れから外れている自分、時の流れに流されていく世界。
 リーフの頭に手を置いて、ミスティは言う。
「自分のことを人間だと考えているならば、その道に外れることはやっちゃいけない。分かるね」
「……僕は、やっぱり本当の両親のところに行きたい。僕のことはみんなが助けてくれるのに、両親が辛い思いをしていたらイヤだから。僕は両親の力になりたい」
「いいんじゃない?」
 ミスティはうなずいた。
「じゃ、さっそく探しに行こう。アンタが両親のもとを離れたのか、両親のほうがアンタを守ったのか分からないけど、ちゃんと理由があるだろうからね」
「僕も行きます……」
 ディルウィードは、目をつぶりながらゆっくりと自力で立ち上がった。
「そんなずたぼろの身体で、魔法もろくに使えないくせに、足手まといになる奴なら来なくていいよ!」
 きつい口調でミスティが言い放った。
「ここは単なる夢の国ってだけじゃない。何が起こるか分からないんだよ。ピンクのふりふりがまた出てきたらどうする? 戦えるのかい?」
「戦えます」
 ディルウィードはきっぱりと答えた。ミスティはそれ以上追求しなかった。

 3人は王城の中を目指す。ディルウィードの切れ切れの記憶の中で、子ども部屋がずっとひっかかっていた。ディルワースに来たばかりのころ。腐臭の中、何かヒントになるようなものはなかっただろうか。あの時の調査では見落としていたもの。何かがあるはずだ。
 埃にまみれ墨と化した遺体をふいに思い出し、ディルウィードはぎゅっと目を閉じた。オルゴールのメロディは、幼いリーフを成長させた。リーフはあのメロディを知っていたのに違いない。ならば、リーフの正体には心当たりがあった。
「きれいだね」
 子ども部屋の扉を開いたミスティが、肩をすくめた。
「ここは……」
 リーフが部屋の中央に進み出て、あたりを見回す。腰の高さまでしかないたんすやゆりかご。小さな寝台には、花々が一面に縫い取られた上掛けがかかっていた。人形や積み木、動物のぬいぐるみといったおもちゃが、たんすの上にきちんと並んでいる。
「うわ、すごい根性ね。これ全部手縫い!?」
 ミスティが上掛けを手にとって、声をあげた。
「それよりもミスティさん、この部屋は、どこかおかしくありませんか」
「ん?」
 ディルウィードは窓辺のカーテンを勢いよくあけた。まぶしい光が部屋の中に差し込む。
「見てください。子ども部屋は、こんなにきれいなものですか?」
 ふたりの目が人形の上におちる。
「……きれいだね。まるで、新品みたいだわ」
「新品なんです」
 搾り出すような声で、ディルウィードは言った。
「あのゆりかごも、あの手の込んだ上掛けも、このおもちゃたちもみんな……いいえ、この部屋そのものが、使われていないんです」
「でも、僕は知っている」
 リーフが、人形をひとつひとつ抱き上げながら呟いた。
「これは、両親の友人たちが贈ってくれたもの。この部屋のカーテンも、母が選んでくれたもの。城の中で一番日当たりのいいこの部屋を、子ども部屋にするって決まったときに、まぶしすぎるのを母が気にして、すごくすごく悩んでこのカーテンを選んだ……」
 そしてリーフは、小さなオルゴールを開けた。物悲しいメロディが流れ出す。かつてディルワースで、そのときを再現したのと同じように。

 ディルウィードは何も言わない。ミスティも、黙っていた。彼が、自分を取り戻すさまを見つめていた。
「僕はここにいる」
 リーフは上を向き、ぎゅっと目をつぶる。
「だから、僕にできることが、まだあるんだ……そうですね? ディルウィード父さん」
 魔法使いは、微笑みながらうなずいた。
「君は、どういうわけかこの《まことの国》から逃げおおせたんですよ、きっと。だから夢魔が君を狙うんだ。それに、君は……ディルワース王家の、世継ぎでもあるわけだから」
「そうだ! ピンクのふりふりを、しばきにいかないとね!」
 うれしそうにミスティが付け加える。しめっぽい展開はうんざりだとばかりに、手甲をはめた手をリーフの肩にぽんと乗せた。
「……ミスティ母さん、選ばせるとか言って」
「あん?」
「結局、それだったんですねやりたかったのは」
「そーんなことないわよっ! 当然の結果ってだけでしょ! さーいこいこ、ピンクをシメに」
 はははは、と硬い笑いのミスティ。
「ダメです。ご両親の居場所を探すのが先決です」
「探すったって、あてなんてある?」
 ディルウィードの言葉に半ば投げやりに、ミスティはくるりとリーフに向き直る。
 リーフが王家の世継ぎだって?
 冗談もいいかげんにしてほしい。ひょっこり現れた王位継承者がたいていどういう目にあうのか、彼女はいやというほど知っていた。よしんばディルワースが、ランドニクスほどきな臭い土地ではないにせよ、シャッセの人気ぶりからして、王子が必ずしも歓迎されないことも簡単に予想できた。彼は狙われ続けるだろう。いろいろな勢力に。このまま隠遁王子をやっていたほうがいいのかもしれない。結局は、リーフ自身が決めることだけれど。
 
「この曲は、まだ僕が生まれる前、よく母さんが歌っていた」
 オルゴールの音が、だんだんと小さくなっていく。
「《夢のあとに》、って曲だってね」
 スローテンポ。とぎれとぎれのメロディ。
「母さん……エシャンジュ母さん」
 オルゴールの回転が止まる。部屋の中は再び静寂に満たされる。
「おや」
 ディルウィードが、ふと耳をすませる。窓辺に寄って窓を開け放った。
「聞こえますか?」
 かすかな歌声が、どこからか風に乗って聞こえてくる。オルゴールと同じメロディだ。
「急ぎましょう」
 ディルウィードはリーフの手をひっぱるように、歌声の方へ向かい走り出す。彼は知っていた。彼自身が戦える時間、リーフを守ることができる時間は、もうあまり長く残っていないことを。

 そして彼らは魔法陣の中、十字架の祭壇にたどりつく。

5.変容 へ続く


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