第6章|残された幸せ|林檎の木の下で|森の一葉のように|動き出した時間|変容|夢魔との戦い(1)(2)(3)(4)|マスターより|
2.林檎の木の下で
《まことの国》の林檎の木の下。
コルム・バルトローは《白馬の君》の隣に並び、街道を挟んだ向こう側の森で、シャッセが草をちぎったり、花をつんだりしているのを眺めていた。人がいないのに街道だけあるというのも不思議だ、とコルムは思った。無駄ではないか、何もかも。この作り事めいた世界。お腹もすかない、眠くもならない。そして、鐘は鳴れども夜は来ない。時を告げることのない鐘楼は、ただ、《まことの国》とディルワースとの通路としてのみ機能している。
目的を、見失ってる。
フォリル先生は、まだディルワースに残っているのだろうか。なかなか戻らない自分のことを、今でも待っているだろうか。……フォリルは、ずっと誰かを待っているように見えた。そういえば自分も誰かのことを、待ち続けていたように思う。コルムはふと、思い出そうとして思い出せなくなっていることに気が付いた。誰だっただろう。自分を置いて、去っていったのは。
シャッセが両手にいろんな花を持って戻ってきた。
「ねえねえ、どれが好き?」
くったくない笑顔で花を差し出し、コルムと《白馬の君》にそれぞれ好みの花を選ばせる。選ばれなかった花をぽいと投げ捨てると、彼女はふたりの選んだ花だけを、たくさんたくさん摘みはじめた。
「遠くにいっちゃダメだぞ!」
「わかってるー」
シャッセは花を探しながらの生返事だ。ディルワースに来てからはじめて、いきいきとしたシャッセに出会えたように思える。それを考えると、再びコルムの心は痛んだ。どうすれば、彼女を助けてあげられるのだろう。
「……彼女は、病人なんだ。ディルワースでは、もう起きることもできないくらい」
唇をきつくかみしめながら、コルムは傍らの青年の表情をうかがった。
「君は、ディルワース人なのかい? 君も苦しみの果てに、この《まことの国》にやってきたのか?」
青年は、口を結んだまま、猫のようなコルムの栗色の瞳を見つめている。返事がないことにむっとしたコルムは、たたみかけるようにしていった。
「私は医者だ。君も《狂乱病》の患者だというなら、いやといっても勝手に診察させてもらうぞ」
「僕は病気じゃない」
「病人はみんなそう言うんだ。シャッセだってそう言っていた。君たちはほんとうに似ているな!」
ほらみろ、といわんばかりにコルムが詰め寄る。
「隠さなくてもいいだろう、シャッセには聞こえない。どうしてあの子に秘密にしたいのか、私にはわからないんだがね……兄君殿」
「はは。ご存知でしたか」
困ったような顔で、青年は照れ笑いを浮かべた。
「王族ならば、ディルワースからやってきたのだろう?」
王子は首を振る。
「僕には名前はありません。父が、それを望まなかったから」
彼は遠目でシャッセを慈しむように、そっとささやいた。
「どういうことだ? 君とシャッセは、フューガス王とエシャンジュ王妃の子どもなんだろう? それとも……」
はっとコルムは口をつぐんだ。
名前がない子ども。誰かが、ディルワースの王城で幻を見たと言っていなかったか。幸せな家族の思い出だったと聞いていたけれど、本当にそうだろうか。
「王城には子ども部屋があったと聞く」
苦しげに、コルムは言葉をしぼりだす。シャッセは離宮のボーペルの元で育ったという。今はどれだけそのころの思い出を失わずにいるか、定かではないが。
「僕がディルワースで生まれていたら」
コルムの表情とは反対に、微笑みながら青年は続けた。
「その部屋が、僕のものになるはずでした。きっとね」
どうしてこの青年は、こんなことを話しながら、こんなに笑っていられるのだろう。コルムは言いようのない悲しみを感じていた。こういう話し方をする人を、もう一人知っている。賢者モースだ。自分の苦しみを表に出さず、あたりさわりなく相手に合わせ、いつのまにか相手を楽にしようとする。自分だけが苦しめばいいと考えている、犠牲的な人間。
「僕の代わりにシャッセが生まれ……あの子が愛されながら育つのを、僕はここから見ていました。あの子を見ていると、僕はうれしいんだ。だから僕は、あの子を守ろうとしたんです」
ほろり。
大粒の涙が、コルムの頬を伝った。
「馬鹿だな」
ずず、とコルムが鼻をすする。涙はあとから溢れてきた。
「ディルワースの踏み台になるのは、僕まででいいんです」
「馬鹿すぎる。フューガスはもっともっと大馬鹿だ」
「……だってコルム先生」
シャッセが大きな花冠をふたつ手にして駆け寄ってくる。彼女に向かって両手を広げ、青年はコルムにささやいた。
「僕は生まれる前に、アングワースにささげられたんだ。生まれてもいない僕が、生きている人間の運命をどうこうなんてできないでしょう。せめて可愛い妹の成長を見守るくらいしか」
青年の胸に、シャッセが飛び込んできた。
シャッセは両手で花冠をかざし、青年の赤い髪にそっとのせた。清楚な白い花ばかりが、シャッセらしく編みこまれている。
「見て見て、僕、上手にできたでしょう? コルム先生の分もあるんだよ」
目頭を押さえているコルムも、シャッセの花冠を問答無用でかぶらされた。蜂蜜色の三つあみに、赤とピンクの大ぶりの花が映えていた。
「先生、どうして泣いてるの?」
「……」
コルムは答えられなかった。
かわりに、気になっていたことに、話をすりかえる。
「シャッセは、昔のこと、覚えてるかい」
「昔って」
「小さいころのこととか」
こくり。シャッセはあっさりとうなずいた。
「《竜の牙》なら、よくこっそり遊んでたから……って話を、前もいっぱいしたよ」
シャッセ自身は、鐘楼の魔法陣を経由して《まことの国》にいるわけではないのだった。
「《竜の牙》?」
青年は、シャッセとコルムの表情をかわるがわる見比べた。語気にこれまでとは違う雰囲気を感じ取り、コルムはごく真面目に答えた。ディルワースに伝わる秘宝、《竜の牙》。仲間のひとりが、その力を借りてシャッセの身を守ったこと。かわりに彼は囚われてしまったらしいこと。
「そうか……」
「何、どうしたのさ」
むくれたシャッセが、青年の腕をひっぱる。青年はシャッセをそっと離すと、すっくと立ち上がった。その動作を追うように、コルムも立ち上がる。
「それで、僕の役目も終わる」
ばさ。ばさばさ。
急に荒々しい風が吹いて、3人の服をはためかせた。
「シャッセ、もうすぐ君は夢から覚める」
聞きたくない言葉を聞かされることを感じ取り、シャッセはいやいやと身をよじった。
「《竜の牙》は、やがてふさわしい的を射抜くだろう。そしてこの長い夢は終わる」
「夢……なんてイヤだ。《竜の牙》も関係ないよ。僕はここにいたいんだ……だめなの?」
青年は何も言わない。いらだったシャッセは、げしげしと青年の足を蹴り、それでも彼の気持ちが変わらないことに腹を立てると、子どもそっくりの捨て台詞を吐いた。
「もういい! 僕、ぜーったい帰らない! ばかばかばかっ!」
「あっ、こら、待ちなさいシャッセ!」
コルムが手をのばす。シャッセはそれをするりとかわし、森の中へと駆けていった。
「お願いです。シャッセを……守ってやってほしい」
「勝手だな。君のほうから優しくしておいて、つっぱねるなんて」
そういうコルムも、もちろんシャッセを追いかけるつもりだった。
「もう行くのかい?」
「はい。僕が、的ですから」
青年はうなずいて、また微笑んだ。
「シャッセに伝えてくれませんか。ディルワースでも、また会えるからって」
「嘘つき」
コルムは呟いて、また涙した。
3.森の一葉のように へ続く

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