第6章|残された幸せ林檎の木の下で森の一葉のように動き出した時間変容夢魔との戦い(1)(2)(3)(4)マスターより

6.夢魔との戦い(1)

 《まことの国》、王城前。

 《竜の牙》たる弓と矢を囲んで、旅人たちが車座になっている。だいたいの情報を整理したところで、オシアンが戦略をたてたから聞いてくれ、と切り出した。
「ここにはいない人間もいるが、彼らには彼らの事情があって行動しているのだし、強制はできない。だが、それぞれが協力することによって、解決が近くなると確信している」
 オシアンは淡々と言い切った。理路整然と言葉を重ねるのはオシアンの得意とするところである。旅人たちの瞳は、一様にオシアンに注がれていた。その中には、賢者モースや国王フューガスの姿もあった。
「いくつもの出来事が絡み合っているように見えるが、骨子は以下の点であると判断した。まずは、夢魔の存在だ……」
 硬質な声で、戦術を述べていくオシアン。その場にいる者たちは、それを聞いてうなずくものもあり、手を挙げて立候補するものもあった。もっとも、オシアンは自分の手の内を最大限に利用してこの戦術をたてたわけであるから、意に添わない役をふられている者はいない。それに、一匹狼を好む者は、そもそもこの場に来るよりも先に、行動に出てしまっていたからである。
「……以上だ。質問がなければ、これで私の話は終わりだ」
 居並ぶ者たちの顔を順番に眺める。アーシュ=アーシェア。ミュー。レイス。リュカ・シー・オーウェスト。エルム・アムテンツァ。ゴド・シシュー。ソロモン・ウィリアムス。 モースとフューガスは、戦力としても戦力外としても考えなければならない。目的を同一にするという盗賊、グレイの姿はなかったが、おおむね予想通りの動きをするだろう。

「俺たちも行こうぜ!」
 アーシュが元気に腕を突き出し、ぶんぶんと振り回している。夢魔と戦うことを選んだ者たちが、鐘楼へ向かっているのを眺め、じっとしていられない。
「そうそう、さっきおまえ生き生きしてたよ、さすが軍師だな。演説うめえんだなぁ、ほれぼれしちゃったぜ」
「あんなのを演説とはいわん」
 むっとした顔を隠さずに、オシアンは冷たく答えた。
「それよりアーシュ、私のターバンをいつになったら返してくれるんだ?」
「おわ」
 アーシュは派手な布にくるまれたままの矢筒をとりだした。
「そういやこれ、オシアンのだっけか。悪い悪い」
 オシアンは風呂敷代わりにされていた布をようやく手にすると、さらさらの黒髪をいそいそとターバンでまとめあげた。むきだしの矢筒をぶんぶんと素振りしながら、アーシュはいつになったらこの封印がとけるのだろうかと考えていた。
「そんなのは、その時が来ればわかるに決まっている」
 ターバンを巻き終え、すっかり砂漠の旅人スタイルに戻ったオシアンだ。髪をさらしたままの姿は、彼にとって肌着一枚でいるのと等しくみっともないことだったのだ。
「準備はできているのか、アーシュ? 言っておくが《竜の牙》のコントロールは任せているのだからな」
「はいはい、分かってますよ。弓も見つけて、そろえておくってんだろ。でも弓って」
 アーシュが言いかけたそのとき、彼の腰の方から小さな声がした。
「ここにあるんよ〜」
 オシアンが、ぴくりと眉を動かした。声の主、ミューが手にしていたのは確かに飴色の古弓だった。ミューはぎゅううっと、オシアンの鍛え上げられたふとももにしがみついている。
「お願いなん。カロンが待ってるんよ。矢を貸してほしいん……みゅー、カロンにいわれてるんよぅ」
 彼女はカロンから、弓と矢をそろえて持ってくるようにと言われていたのだ。アーシュが軍師の顔を伺う。ディルクラートはどうした、とオシアンが尋ねると、ミューはふるふると首を振った。
「でぃるくは先に……」
「行ったか……いいだろう、お嬢さん。どうせカロンが囚われているとすれば、行く先は同じだ。これを持っているといい」
 ミューが両手を広げてうけとると、それは一枚の葉っぱがついた木の枝だった。俺にも俺にも、と欲しがるアーシュにも同じものが手渡される。 
「いい匂い。にゃあ、これ、林檎の枝なん〜」
「さすが詳しいな。お守りだ。《まことの国》にたった一本の林檎の木の枝だ。他の者にも配りたいのだが、手伝ってもらえるかね?」
「うん! みゅー、お手伝いする〜」
 オシアンとミューが作った枝のお守りは、夢魔との決戦にさきがけて、仲間たちみんなに配られた。 
 
「フューガス様、こちらにいらっしゃいましたか」
 フューガスは翼で傷つけぬよう、注意深く振り返る。声をかけたのはレイスだった。
「実は、私なりに考えてみたことがあるのですけれど……《貴石の竜》について」
 フューガスは鷹揚にうなずき、話の先をうながした。この所作、懐かしい。いわゆる王侯たちのふるまいを目にするたび、レイスは《清流弦》の王子を思い出す。
「ディルワースという土地そのものが、《竜》に対してなんらかの力を持っているのではないかと、私は思います」 「《竜の通い路》だしな。確かに《大陸》中にいた《竜》が、なぜ最後にディルワースに残ったのか……それは俺も考えていた」
「ディルワースの土地、場所がきっと重要なのです。あるいは、ディルワースにある何かが。だからこの国に《竜の牙》が残されたのです」
 ディルワース王族をとりまく今の状況と、かつての《竜》の状況は、レイスには似ているように思えた。同士討ちで滅んだ《竜》。一方で、内側から滅びへ向かいつつあるディルワース。
「《竜の牙》がふるわれる時が、もうすぐくるでしょう」
「夢魔を追いつめることができたら、だな」
 レイスは目を伏せた。フューガスは《竜の牙》の力を恐れている。打ち砕かれるのはフューガス? それとも夢魔?
「夢魔が国自体に寄生しているとしたら、どうでしょうか」
「国を蝕む奴は、どんな相手であろうと許さぬ。それが俺の務めだ」
 フューガスの語気は荒い。レイスはそんな態度をとがめるように続けた。
「でも国を愛しているのは、あなただけではありません。王妃様も、ディルワースの人々だってみなそれぞれに……」
「国を守るのは、国王の義務だ」
 フューガスの瞳に、暗い炎が宿る。
「国を守る大義のためならば、わずかな犠牲は仕方ない」
「わずか。わずかなんて言葉でくくるのですか。陛下のご家族ですよ。王妃様にだって、嫁ぐ前の人生はあるのです。そしてそれは変えられない。あなたは不貞と王妃様をなじったけれど、王妃様にきちんと向き合い、話し合うことはしなかった。違いますか? それを不要とおっしゃいますか?」
 フューガスは、その問いに答えることができなかった。
「今後悔したら、俺は負けたことになる」
「どうして勝敗でお考えなんです!」
 レイスは自分に言い聞かせるように訴え続けた。
「あなたは、単に自分に対する苛立ちを親友であるモース殿にぶつけているだけです」
 自分もそうだったから、レイスには分かった。普通の人間ではない。ゆっくりと年をとる現象のなかで、何度もレイスは畏怖され、孤独を味わってきた。それゆえの言葉だった。
「この《清流弦》を私に下賜された方も、ある国の王子でした。ですが、他のご兄弟からいわれなくねたまれ、ついに私の目の前で……もう二度と、そんなことはいやです」
「……心配してくれて礼を言う。だが」
 一度決めたら、決して翻さない。フューガスの目はそう語っている。レイスは歯噛みした。
「今更エシャンジュに謝ったところで、あれは許さないだろう。俺のために、生け贄にささげられたことを」
「王妃様を助けにいっている仲間もいます。まだ遅くありません」
「ではなおさら俺の出る幕ではない。勝手にするがいい。おまえはおまえがしたいと決めたことをやればよかろう。エシャンジュを助けに行くなり何なり」
 フューガスはくるりとレイスに背を向けた。その先に、傭兵アーシュの姿が見える。
 どうしてモース様もフューガス陛下も、こんな調子なのだろう。吟遊詩人はため息をついた。

 リュカの心はすでに決まっていた。
 鐘楼の石の床に、お行儀悪くあぐらをかいて、両脇には地下室から拝借してきた本を何冊も積み上げ、ひたすら記述を追っていくリュカ。麒麟のキュルは、ふさふさの毛並みを風になびかせながら、そんな少年の隣で時が来るのを待っている。フューガスの話が何回も何回も脳裏に浮かんでは消えた。考えれば考えるほど、自分ができることはこれしかないように思えてきて、ついに彼は決断したのだった。
 《貴石の竜王》の召喚。
 オシアンにも、今なら召喚できるんじゃないか、と言われたことが、リュカの決意をさらに後押しした。
 竜王アングワースそのひとの肉体の上に築かれた《まことの国》。竜が翼を広げたかたちの、巨大な十字架だ。賢者様の家も、城下町もなく、王城だけがあるなんて。そんな選び方を、フューガスがするだろうか。単に複製としての場所ではなく、作った人が必要とした世界。理想とした世界。選んだ世界。
「それって……どうなんだろ」
 本からふと顔をあげ、リュカはすぐ近くにある青空を眺めた。
 この青空は、ディルワースにつながっている。


「それが真に本心から願われ、実行されたものだったのなら」
 硬い表情で、オシアンは言っていた。誰に向かってでもなく、独り言のように。
「かつて同じように施政の任にあった者として、フューガス国王陛下の勇気と決断に敬意を払おう」
 その言葉を聞いたとき、リュカはオシアンの本意を少し垣間見れたように思った。すごく頭がよくて切れる人なのに、みんなの人気者になれそうなのに、オシアンにはどこか人を寄せ付けないような温度差がある。なぜだろうと思っていた。あの人は頭が良すぎるんだ、きっと。だから、普通の人には見えないものが見えるんだ。しがらみとか、気遣いとか、人が隠している傷跡とか。


 はさはさ。麒麟の尾がたゆたうように揺れている。その先に、戯れる小鳥の姿を見つけてリュカは思った。
「いやなものがない、居心地いい世界。だったら俺、ガッコを飛び出したりしなかっただろーな……」
 ちゃんと真面目に勉強して、家でもお利口で、喧嘩もしないで、キュルにも出会わないで。
 なんだか自分じゃないみたいだ。ちっともうらやましくない。
 だって悪さをするのは、見つけて叱る人がいるからだった。喧嘩するのは、相手がいるからだった。家を出たのは、家族がいたからだった。……たしか。
 喧嘩したこと、家を出たことは何となく覚えている。でも実感がまるでない。誰のことが嫌いだったんだろう、あんなに。

 思い出したぞ。魔法陣を出るときに聞こえてきた言葉。
 リュカは背筋に冷たいものを感じて、ぞくりと身を震わせた。
『美味しいわ、それ』って、たしかに言ってた。自分の嫌な思い出を、えぐりだすように持ち出すあいつは、夢魔だったんだ。今更ながら、リュカは無性に腹がたってきた。
「くそっ……いつだって、一生懸命やってきたのに……そのつもりだったのに……」
 いつもそうだ。自分は空回り。人前ではおどけていたのは、努力しているところを見られるなんて、めちゃくちゃカッコ悪いと思っていたからだったのに。兄と違っておまえは、って何偏耳にしたことだろう。

 頬に温もりがあった。顔をあげると、キュルが鼻の先をリュカの頬にくっつけていた。リュカは立ち上がり、麒麟の角をすべすべとなでる。いつだってちっぽけな存在だった自分。まともに相手をしてもらえなくって、しょげてた過去。もう、あんなのは嫌だ。召喚師として育ち、学んできた自分を試してみよう。
「僕も手伝うよ、子猫ちゃん」
「モース様!」
 リュカは飛びあがらんばかりに驚いて、気をつけの姿勢をとった。
「ふうん……《竜の牙》を触媒にするつもりなんだね。この本は、フューガスの蔵書、か。懐かしいな」
 モースは一冊の本を手にすると、ぱらぱらとめくり始めた。その様子を、どきどきしながらリュカは見守っていた。

「お連れしたぞっ」
 鐘楼の床にあいたはしご穴から、アーシュの顔がのぞいた。その後ろには、フューガスの姿もある。アーシュは《竜の牙》の監視役として、召喚の儀式に立ち会うことになったのだ。リュカのほうの準備が整うまでの間に、フューガスを迎えに行っていたのである。
「キミも手伝いに来たの、フューガス?」
「自分の尻ぐらい自分で拭いた方がいいだろう」
 ごほんと咳払いすると、フューガスはリュカに小さなナイフを放り投げた。
「俺が儀式で使ったナイフだ」
「は、はい」

 リュカは手首にナイフを当て、ゆっくりと刃をすべらせる。鮮やかな赤が、石の床に滴って複雑な模様を描いていった。モースとフューガスは、それを意味ある図形に書き替えていく。麒麟は何もいわず、リュカの姿を見つめている。リュカには、キュルの視線の意味がわかった。ごめん、ごめんな。一瞬でも、おまえを代償にすることを考えちまって。でも、キュルを何かに替えることなんてできないから、やっぱ俺、自分でやってみる。俺自身を代償にする。
 だって俺、落ちこぼれだったけど……召喚するときのワクワクする瞬間、すっげー好きなんだもん……。
 
 血の魔法陣が、輝きを増した。《竜の牙》で増幅された力が、狭い空間の中でうずを巻いている。アーシュは魔法の火の粉にちりちりと身を焦がされるような錯覚におちいり、思わず目をすがめた。石の床に流れたリュカの血がぶくぶくと泡立っている。
 リュカは灼熱の中に囚われていた。熱い。血が描く模様の放つ熱が、どんどん勢いを増し、発火しそうなくらいにリュカを焼いている。負けるもんか。熱さになんか負けるもんか。ちりちりと、全身の毛穴に焼ける針を埋め込まれるようだ。負けるもんか。竜の強さになんか。キュルが何かを恐れるように、頭を低くした。
「う、うああああ……うわあ、あうう」
 うめき声はリュカではない。
「フューガス!」
 描かれたばかりの魔法陣に膝をつき、両手で自分を抱きしめるようにして、フューガスが吠えていた。リュカの血にまみれながら、足をとられたようにじたばたともがいている。《竜の牙》が放つ力が一段と激しくなった。目に見えない炎が赤々と燃えさかるのを、その場の誰もが感じていた。
「子猫ちゃん、しっかりするんだ!」
 体力と精神力の消耗に、崩れ落ちそうになるリュカを、モースが背後からそっと支えた。
「へへ……だいじょぶ」
 リュカは、気丈にVサインを返す。
「うおおおおああああああああああああああああああああああああああああ」
 フューガスが恐ろしい絶叫をあげた。

 魔力が弾けた。ズガアアアアアン、という音とともに、鐘楼の屋根が粉々に吹き飛んだ。アーシュは根性で《竜の牙》をひっつかむ。瞬間、体中の血が沸騰したかのような熱が、アーシュの全身をかけめぐった。それでも、彼はそれを離さなかった。
 フューガスはぼろぼろになって床に倒れ伏していた。異形の部分がなくなっている。鱗があった肌は黒こげだ。腕や足、背中、いたるところが、フューガス自身の血にまみれていた。
 そして……

『原初の炎より出でし我を呼ぶは誰か』
 漆黒の鱗に巨体を包む、偉大なる竜王の姿が、その空に浮かんでいた。フューガスの中に留まっていた竜の力が、その肉体から抜け出したのである。頭部には幾本もの角が枝のようにそびえ、両目は炎のように爛々と輝いている。額にも小さな炎が輝いていて、三つ目のようにも見えた。漆黒の皮翼は、アフリートのそれとも似ていたが、大きさは桁違いだ。巨体の背中には、ずらりととさかのような鱗が並び、太い尾までとげとげがついている。
「あ、アングワース」
 呟きながら、リュカの身体はずるずると床に滑り落ちていった。熱い炎が駆けめぐっているような感覚は、まだ残っていた。若草色のローブには、ところどころ焼けこげができている。
「ざっと……こんな……もんだぜ……」
 頬に温もりがあった。顔をあげると、キュルが鼻の先をリュカの頬にくっつけていた。ぺろ、とキュルが少年の手を舐める。リュカに少し力が戻ってきた。
「アングワース、聞いてくれ。みんな困ってるんだ……《狂乱病》、治してほしいんだ……アンタならできるんだろ? 血を分けるなんて回りくどいやりかたしなくても、ちょちょっとできたりとか」
『勝手な奴らよ』
 耳ではなく心に響く声で、アングワースは答えた。
『我はそこの王に請われ力を貸したはずだ。血を流しても死なぬ我らの生命力を手に入れ、このうえ如何せんとする』
「《狂乱病》は血を流す病気じゃねぇもん」
 キュルにしがみつくようにして、リュカはもう一度、立ち上がる。
 アングワースは、ばさりと翼を広げた。

『我らは人間とは時も空間も異にする』
 アングワースの声は、どこか身体の奥深いところから聞こえてくるようだった。
『《大陸》がまだ夢を見ている時、そこは我らが版図だった。《悪夢》を喰らい駆逐すること、それが、我らが生きる理だった。まだ《大陸》が、今のかたちに固まるずっとずっと前の話だ』
 それは、神々の時代よりもはるかな、古代の物語だった。《大陸》のあるべき姿を定めるため、彼ら《貴石の竜》族は、《悪夢》の軍勢と戦った。半ばで果てたものの肉体は《大陸》へと降下し、その骨をいくつもの山脈に変えた。
 だが、戦えば戦うほど、その時は早く来る。戦闘種族たる《貴石の竜》は、皆飢えに苦しむようになっていく。なぜなら、《貴石の竜》が生きていくためには《悪夢》との戦いが必要だったから。換言すれば、《悪夢》と戦わない《貴石の竜》は《貴石の竜》ではないのだから。自らの敵を駆逐すればするほど、彼らは窮地に追い込まれていく。《悪夢》との戦いを忘れたものたちは、《捨石の竜》……またの名を《なりそこない》となって《大陸》に下っていった。
 そしてそんな中、《悪夢》の軍勢の最後の一匹をめぐり、生き残った《貴石の竜》たちがついに同士討ちを始める。次々と息を引き取った《竜》は、その身をディルワースの山脈に変えた。  
「それが、アングワースの3匹の子ら、か」
 アーシュが呟いた。リュカはうなだれたまま、黙って話を聞いている。
『だが《悪夢》の最後の一匹がまだひそんでおった。こいつがこざかしいやつでな。名をモーヴェレーヴと言う』  モーヴェレーヴを駆逐すれば、《貴石の竜》の役目は終わる。
 そのことを分かっていて、それはアングワースに申し出た。
(アンタもアタシも、最後の一匹どうし。仲良くしましょ)
 それがもう、はるか昔のこと……。

『我もな、仲間をなくし退屈していたのだ。迷いもあった。それが災いして此度の事態となった。いかにも、人間が《狂乱病》と称する病は、我ら《貴石の竜》の存在と深く関係がある。すなわち』
 小さく言葉を切ると、アングワースはリュカの目をしっかり見つめて言った。
『我らの迷いや憂いが、《大陸》にまた夢を見させてしまうのだ。そしてそれは、そこの住人たちに影響を及ぼしていく』
「竜が存在することそのものが、《大陸》の人間に異常をもたらす……」
 モースが顔をゆがめた。
『だが、今はもう我は悩んではいない。モーヴェレーヴとともにその役目を果たし終え、《大陸》に還るならばそれでいいのだ。だからな、少年よ』
 リュカはぼうっとしてアングワースの深い深いまなざしをうけとめる。
『その願いを叶えようとするならば、我を滅ぼしてくれることだ』
 その目は優しかった。

『矢筒には3本の矢が入っているはずだ』
 アングワースが言ったと同時に、矢筒の中から光があふれ出てきた。竜王の命により、封印がとけたのだ。矢筒の中で、3本の矢は意思あるもののように輝きを放っている。
『我が息子たちの牙だ。《竜》の血によって贖われるあらゆるいましめを無に帰すことができよう』
 一本は自分を滅ぼすために使ってほしい、そうアングワースが付け加えた。
「ダメだよ、そんなの」
 リュカが険しい顔つきで憤慨した。
「俺がアングワースを召喚したんだ。だから、あんたは俺の召喚に応じなきゃ」
『面白いことをいう奴だな』
 アングワースはごろごろと、雷か地響きかというような音をたてた。たぶん、笑っていたのだろう。
『だが、我が身体はこの通り、《大陸》のように岩と化している。我が力を奮うには他の肉体が必要になるのだが、少年よ、おぬしの身体を我がもらい受けてもよいのか?』
「うん。カッコよさそうだから、いいよ」
『実に面白い奴だ。おぬしのようなやつばらばかりであれば、我もこれほどは退屈しなかったものを……まぁよい。いずれ矢は放たれるのだ。もしもおぬしが、矢を射ることなければ、力を貸そう。約束だ』

 モースは倒れ伏したままのフューガスを、そっと揺り動かした。
「息はある。よかった」
 モースが安堵する。
「でも、ここに置きっぱなしにしておく訳にもいかないだろ。この人だって夢魔に狙われるかもしれない。魔法陣の中へ連れて行ったほうがいいんじゃないのか、モース様」
 アーシュが言いながら、ほら、としゃがんで背中をふたりに向けた。
「うあ……うう……」
 苦痛のうめき声は、アーシュの心に重く響いた。オシアンの言うとおりだった。あいつは、フューガスのことを常に警戒していた。分かってたんだ、心だけを取り戻しただけじゃだめだったってこと。異形なのは、まだ《竜》の力を保持しつづけている証拠だった。そして……それをすべて知ったうえで、オシアンはリュカに召喚してみるかと持ちかけた。
 でも、それがオシアンのやり方だということをアーシュは知っている。そういうやり方で、全員の安全を確保しながら目的を達成しようとする男。女みたいに綺麗だけど。
「畜生」
「……守ろうとしたんだ。アングワースと融合していくのを受け入れるフューガスを、引き離そうとしたんだ」
 肩の負傷は、親友をかばおうとした跡なのだ。同時に、親友を救いきれなかった後悔の跡でもあっただろう。
「分かってる。この人もわかってるさ、モース様」
 またフューガスを傷つけたと知ったら、ジェラが怒り狂うだろうな。そのときは、せめてもリュカをかばってやろう。そう思いつつ、彼らは魔法陣の中へ、夢魔の灰色の空間へと足を踏み入れる。

(2)へ続く


第6章|残された幸せ林檎の木の下で森の一葉のように動き出した時間変容夢魔との戦い(1)(2)(3)(4)マスターより