第6章|残された幸せ|林檎の木の下で|森の一葉のように|動き出した時間|変容|夢魔との戦い(1)(2)(3)(4)|マスターより|
5.変容
ルナリオンはあくび混じりで、灰色の空間の中をひとりさまよっていた。随分長いこと眠っていたような気もするが、いつからこうしてここにいるのか、定かではなかった。お腹はすかないし、疲れもしないけれど、晴れない眠気はずっとルナリオンにのしかかっていた。
「ふあぁ、やんなっちゃうな」
愛用のまくらを片手に抱き、ふとルナリオンは頭上を見上げた。
どこまでも続く曇り空。しかし広さは感じられない。もこもこと形を変えながら、ルナリオンに今にも襲いかかってくるような圧迫感。静かなところは気に入ったけれど、どうも寝心地は悪そうな空間だった。
「似てるなぁ〜。まるで誰かの夢の中に入ったときみたい」
夢魔道士は首をひねった。この景色には既視感を覚えたからだ。金の腕輪に手をあてて、彼女の得意のバクを呼ぶ。黒白の巨体に短い四肢をもつバクが、ずももももと出現した。召喚主を無視してのそりのそりと歩き出すバクに、ルナリオンはひょいとまたがった。どこへ続くか知れない道の先をめざす。
「やっぱりここは夢の中……? でも誰だろう、こんな広い、何もない夢を見つづけているなんて」
夢を見るのには力が要ることをルナリオンは知っている。
体力や精神力、それらを万全に保っていないと、夢魔道士といえども夢に飲み込まれて帰ることができなくなる。だからというわけではないが、ルナリオンは十分すぎる睡眠を欠かさない。
じゃきん。
銀色の鎌が突然目の前にひらめいた。ふいをつかれたルナリオンは、バクの背中から転がるように刃を避ける。ぼすっとにぶい音がして、枕に深ぶかと鎌がつきささった。ぐりぐり鎌が回転する。真っ白い羽毛が舞い上がり、ルナリオンの視界を白く埋め尽くした。
「わ、大事なまくらをーっ!」
攻撃をくらったバクも、溶けるように消える。ルナリオンは拳をぶんぶん振り回した。
「なによ、なんなのよっ」
もう一度、攻撃用の夢魔法を準備する。金の腕輪から呼び出した黒い影は、ルナリオンの足元にぴたりとはりつき、命令を待った。
「さぁやっつけちゃいなさい、アクム」
黒い影がするすると伸びていく。夕焼けに伸びる影のように、音もなく。
「あたしと、あたしの眠りを邪魔したやつと、かわいいバクを攻撃したやつよ!」
『うふふっ、なぁんだ』
おかしくてたまらない様子で、ピンクのふりふりした生き物……夢魔のモモがルナリオンの前に姿を見せた。赤ちゃんのように丸くなり、両手をおなかにあてて笑っている。ハート型のしっぽが、ふりふりのスカートからひょろりとのびていて、フリルの間からのぞいているパンツには、白いばんそうこうがぺたりと貼られていた。
「降りてきなさいよ、今なら、新しいまくらを買うお金だけで許してあげるから」
『そんなの呼んで、アンタ、夢魔道士だったのネ』
「降りてこないなら、安眠妨害でアクムをけしかけてやるわ」
頭上をころげる夢魔をにらみつけながら、不機嫌なルナリオンである。
『ばっかねぇ! きゃはははっ』
くるくるとピンクの鞠のように、夢魔はルナリオンの周りをからかいめぐる。夢魔が銀色の鎌を一振りすると、黒い影は鎌に吸い寄せられるように伸びていき、じゃきん、と簡単に切断されてしまった。まっぷたつにされた影は、やがて薄れて消えていく。
「どうして……あたしの夢魔法が効かないの?」
『夢はアタシの住みかだからよ』
にゅっ、と夢魔がルナリオンの胸元から顔をだした。びくりと殺気を感じたルナリオンは後に飛び退る。無駄とは知りつつもう一度バクを呼び出そうとした。
『夢魔法は、アタシたちの力にとても近いのよ。でも、焚き火じゃ火山に勝てないの……いただくわ、その記憶』
「きゃあああああ!」
ルナリオンの喉元に、大鎌が振り下ろされる。左半身を銀色の刃がすべっていった。カキン! と硬質な音を立て、ルナリオンの左腕にはめられた腕輪が、砕け散った。同時に夢魔の鎌が、粉々にはじけ飛ぶ。金と銀の欠片がまぶしいほどに輝きながら降り注いだ。
『鎌が!』
夢魔の顔色が変わった。
『アンタ何者よ! 《悪夢》の武器を壊せるなんて!』
ルナリオンは左腕を押さえてうずくまりながらも、夢魔をにらみつける。彼女の半身も、真赤に染まっていた。
「これでお互いさまじゃない」
『嘘よ、《大陸》の人間になんか負けないわ! 《竜の牙》でもないのに打ち砕かれてしまうなんて!』
半狂乱になった夢魔が、灰色の雲のかたまりをルナリオンに向かってぶつけた。ルナリオンはそれをよけなかった。
あたしはどうしてここにいるんだろう。
ふと疑問がよぎったからである。
もくもくと灰色の雲につつまれて、ルナリオンは知らなかった真実を目にした。
広がる景色には奥行きがあった。
灰色の空間から一転、高い山々に抱かれた、とある集落。空はまぶしいほど青く澄みわたり、手を伸ばせば雲に届きそうだった。山はディルワースのそれよりももっと険しく、天辺には雪を頂いている。人気はなく、食事の準備を示す煙もなく、集落は荒れ果てた遺跡と化していた。
ルナリオンは、ここに来たことがあった。というよりも、ここに暮らしていたことがあった。山肌を、伸びるに任されている木々も、石の建物も、見覚えがあった。
「夢魔道士の隠れ里……レーヴ・レース」
石の門に刻まれているのは、もう人々に忘れられた里の名前だった。
「どうしたんだろ。どうして誰もいないんだろ」
呼べど叫べど、ルナリオンの声がこだまするばかり。道連れが欲しくなって、バクを呼び出そうとしても、黒白の巨獣は姿を見せなかった。そして左腕の腕輪がなくなっていることに、ルナリオンは気がついた。
視界の隅で、何かが動いた。白い人影。里の一番奥の建物に入っていこうとしている。
「あそこは……夢の神殿だ」
ルナリオンは懐かしい街並みの中を、ぱたぱたと走りぬけた。
夢の神殿は、隠れ里まるまるひとつと同じくらい広いと言われていた建物だった。祭事で使われるのは祭壇とその周りの部屋だけで、地下は迷宮になっているとか、《原初の炎の夢》につながっているとか、いろいろ噂があったものの、本当のところはルナリオンも知らなかった。
白い人影は、男女の二人連れだった。夢魔道士だろうか。ルナリオンは柱の陰から、彼らをそっと見守ることにした。もともと黒ずくめの格好は、すっかり陰の中に溶け込んでいた。
『ここには、肉体を残したまま《大陸》を去った仲間たちが眠っておるのじゃ』
年かさの男が、まだ若い少女に語っている。ルナリオンは耳をそばだてた。
『《大陸》を去る?』
少女の声には感情がこもっていなかった。
『夢に触れすぎ、夢に囚われて、こちらに戻ってくることができなくなった夢魔道士たちじゃよ』
地下へと続く大きな扉が、男の手で開かれた。かつん、かつん。ゆるやかなカーブを描く階段を下りて着いた先は、いくつもの棺がならぶ墓所であった。
『……鎮魂の歌を、捧げさせてもらえますか』
少女は美しい竪琴をそっと取り出した。
『そなたは吟遊詩人だったな。それならば、この歌を……ともに歌っておくれ。《鱗を飾りし赤流の 生あるものを閉じこめし 切り裂く牙のその果ての すべてを砕きて砕きえじ》……』
祈るように低く、時に高く歌い上げながら、男は一番手前の棺の蓋をそっとずらした。
生きているのと変わらない姿で、青白い肌と青白い唇の少女がそこに横たわっていた。
後ろにまとめた蜂蜜色の髪。黒いスカートの下から、黒いストッキングとブーツをはいた足がすらりと伸びている。首が隠れる黒いニット。肩からは細い腕がむきだしになっていた。
「あたしだ……」
ルナリオンが呆然とつぶやいた。少女がはっと振り返る。つかの間、二人は目を合わせた。
「レイス」
ルナリオンはその少女を知っていた。少女の竪琴のことも、聞いていた。だが……。
『どうかしたかね、レイス殿』
『いいえ……風が』
少女は男に首をふった。ルナリオンの姿は、見えていないようだった。
『風に呼ばれたような気がしたのです』
ルナリオンは神殿を後にした。
『夢魔道士なんて、ちょっと夢のことに詳しいだけで、アタシを傷つけることなんてできないんだから!』
どこからか嬌声にも似た夢魔の笑い声が聞こえてきた。
あたしは何をやってるのだろう。
身体を置いてきたままで、この世界で何ができるんだろう。お腹はすかない。でも物をつかんだり、戦ったり、誰かとしゃべったりすることはできる……それだけできれば、生きているのと大して変わりないだろう、とルナリオンは思った。
何かがルナリオンの身体を温めている。ポケットを探ると、すっかり忘れていた小瓶が、暖かい光を放ちながら転がり出てきた。
「モース様、どこにいるのかな。賢者様だったら、ここを出て生き返る方法、知ってるかな?」
小瓶をそっと胸元ににぎりしめ、ルナリオンは駆け出した。
6.夢魔との戦い へ続く

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