第6章|残された幸せ林檎の木の下で森の一葉のように動き出した時間変容夢魔との戦い(1)(2)(3)(4)マスターより

6.夢魔との戦い(3)

 魔法陣の中、灰色の空間の中にオシアンは立っていた。そして、その場にいるはずのない人間の姿を目の当たりにしていた。夢魔の見せる幻だ、と理性は告げている。だが。
「カルデシム?」
 灰色の空間は、見慣れた砂漠の景色を茫漠と映し出していた。
 夜明け前。地平の先にかすかに一筋赤い光が目覚め始めている。遮るもののない、広陵としたこの砂漠は、オシアンが生まれ育ち、そして後にしてきた故郷だった。火と風と砂。オシアンが得意とする魔法の系統は、この土地が彼に教えたものだった。忘れ得ない背中をその景色の中に見いだし、オシアンは唇をかんだ。
「夢魔め、私をターゲットに選んだか。その手にはのらぬ」
 習慣で、オシアンはアフリートの位置を探ろうとした。枝のお守りを渡し、作戦実行のスタンバイをするために、フォリルの元へと使いに出したのである。気配はなかった。
「……少なくとも魔法陣の中にはいない、か。よいだろう、最悪の事態ではない。フォリル殿が間に合うとよいが」
 しゃらん。錫杖が乾いた音を立てる。

「オシアン様、まだご機嫌を損ねていらっしゃるんですかい? らくだのことなら心配要りませんよ、今頃無事に隣のオアシスでのんびりやってるでしょうから。それとも、何です。こんなところでは仕事がはかどらないとでも? 今日は休息日、それもまだ夜明け前ですよ。今日ぐらい、せっかくですから骨休めといたしましょうや」
 カルデシムが岩陰で火をおこし、暖かい飲み物を作っていた。もうすぐ朝が来る。砂岩から滲み出す水流と、わずかな木陰からなる小さなオアシスは、大人がふたりでゆったり休める程度のこぢんまりした所だった。大事な話があるからとカルデシムに連れ出されたたものの、乗ってきたらくだを放されてしまい、不本意ながらオシアンは、久方ぶりの休息日とやらをカルデシムとふたりきりで過ごす羽目になったのだった。
「休息日に働くものは、バーラットの父祖に怒られるのではありませんでしたっけ。いやはや、バーラットの父祖の教えはまったく正しいものですな。砂漠の外生まれのカルデシムにゃ、時々ちっとばかし厳しい教えですけれどね」
 族長の長男という立場と、彼自身の性格から、オシアンはもう長いこと、部族のために身を粉にしてあれこれと責務を果たしてきた。カルデシムはそれを見抜き、生来体の強くないオシアンのためを思って……仕組んだに違いない。
「大事な話とはなんだ?」
「つまり、こういうことですよ」
 たき火を横目に、ごろりとカルデシムは寝転がった。
「今日一日、のんびり昼寝でもしませんか」

「こんな思い出を私に見させて、どうしようというのだ、夢魔め」
 しゃらん。錫杖をつきながら、オシアンはつかつかと砂漠の景色の中に入り込む。
「小賢しい手妻はそのへんにしておくがいい」
 ざくっと足元の砂を掘り、杖の先で蹴散らした。隠しにおさめた小枝のお守りを、衣服の上から確かめる。爽やかな林檎の香り。小枝には精神を安定させる魔法がかけられていた。
 オシアンの作戦の狙いは、夢魔の捕獲だった。片や陽動作戦としてグレイたちの動きを利用しつつ、アングワースとフューガスの分離を試みる。そして夢魔を餌でおびきだすために、おとりを用意する。おとりとはつまり、ディルワースに残されているシャッセであった。


 次第に、砂漠の風景がにじむように灰色の空間に溶けていった。オシアンはほんの少し、砂漠が薄れていくのを惜しんだ。夢魔は新しい餌にとびつきにいったに違いない。だんだんと蜘蛛の巣に絡められ、追いつめられているとも気づかずに。だが……どうせなら、あの思い出の、もっと先まで見せてほしかった。オシアンがこれまでにただ一度だけ、人前で感情をほとばしらせ、女のように泣きわめき、挙げ句の果てになだめられたあのシーン。醜態をさらけだしたからこそ、カルデシムを信用し、心を許す相手と認めるきっかけとなったシーンを。そしてその先の、裏切りと悲劇までも。
「今なら、直視できるに違いないのだがな。……フォリル殿、健闘を祈る」
 オシアンは笑みを浮かべていた。


 ディルワース、離宮。シャッセの寝室で、フォリルとカミオは待機していた。
「キィ」
 黒ネズミのアフリートが、四つ足をふんばって敵の来襲を待ちかまえている。
「ほんとに来るの?」
 ハンマーをもてあそぶカミオに、重々しくフォリルはうなずいた。眠り続けているシャッセの身体は、衰弱の限界に近づいてきていた。一度はカロンに阻まれたが、ディルワースの王族を特別の餌として認識しているらしい夢魔のことだ、必ず再来するだろうという確信がフォリルにあった。
 アフリートがどうやって《まことの国》からディルワースに戻ってきたのか、方法は定かではなかったが、あちらでオシアンがしようとしていることは、アフリートが携えてきた手紙で知れた。手紙といっても用件のみで、公文書のような素っ気ない代物であった。が、ご丁寧にも、アフリートは妙な病気を媒介したりはしないこと、言語を解しはしないが牙に毒をもっており、いざとなれば戦力として数えられること、などが神経質そうな細かい字で書き添えてあった。
「オシアン殿は何を考えているのだ、人を信用していないのか、あれは」
 というのが、その手紙を読んだときのフォリルの感想であった。
「誰が、人の使い魔にいきなり消毒液をかけたりするものか……いや、アフリートは使い魔というわけではないのか。まぁ……いいのだが」
「うまくいくといいね」
 こんな時でも、カミオの言葉はどこかのんびりしていた。
「シャッセ姫を、おとりの餌に見立てているのだからな。うまくいくようにしなければならないのだ」
 対照的にフォリルの口調は重い。アーモンド型の瞳は、シャッセの周囲を油断なく見張っている。


「キィ!」
 アフリートが甲高く鳴いた。フォリルは弾けるように立ち上がると、すばやく部屋全体に目を走らせた。カミオがハンマーをつかんで、シャッセの頭上を見上げる。
「待っていたぞ、夢魔!」
『うふ、シャッセだわ! いただきまーす』
 ふわふわ、ふりふりのピンクの夢魔が、銀色に輝く大きな鎌と一緒に出現した。
「やめろ、お姫さまに手を出すな!」
 カミオが振り上げたハンマーは、夢魔に振り下ろす前に大鎌に逸らされる。フォリルはそれを見て、壁際から矢を放った。カミオに集中していた夢魔は、矢をよけきれず、寸前で一度くるり回って姿をかき消す。
『きゃん! やったわね、この〜!』
 鼻にかかった声だけが聞こえる。フォリルに今度は大鎌が襲いかかった。近接攻撃の手段を持たないフォリルは、ぎりぎりでそれをかわし続ける。
「先生、危ない!」
 カミオが叫びながら援護する。フォリルの頭上に輝いた大鎌にハンマーがぶちあたった。その瞬間、アフリートが宙に向かってとびかかった。
『イタイっ』
 夢魔が姿をあらわす。そのふりふりのお尻、ハートのしっぽのつけねあたりに、アフリートはしっかりとかみついていた。
『イタイってば、こらぁ!』
 涙目の夢魔は、狂ったように鎌を操るが、自分のお尻を攻撃することはさすがにできないらしい。ぷるぷるしっぽを振っても、アフリートにはあたらなかった。アフリートはするどい牙でがっちりとモモに喰らいついたまま、どれだけ暴れられようと離さない。
「やめておけ、毒のまわりが早くなるだけだぞ」
『なによう、やめてよ、ちょっと……毒ですって!』
「砂漠に住む鼠の毒を知らないか?」
『いやああん』 
 夢魔は大きな赤い瞳から、ぽろぽろと涙をこぼす。だがそれは嘘泣きで、隙をついてシャッセに鎌を振り下ろそうとした。
「させるか」
 フォリルがすべるような動きで、その間にたちはだかった。フォリルの黒髪が切り裂かれ、数束はらはらと舞い落ちる。やせた頬に一筋、赤い糸がにじみでた。
「姫を傷つけることは許さん。夢魔は夢魔らしく、夢の中へ帰るがいい」
 その声には並みならぬ迫力があった。
「それとも、私の夢でも食べるかね?」
『うええええ……えいっ』 
 お尻の痛みに顔をゆがませ、鼻をすすりながら、モモはそれでもフォリルにむかって灰色の雲をぽふんとぶつけた。
 もくもくもく。雲は見る間に部屋中に広がり、ある情景を映し出す。フォリルは目を細めた。


 周りを囲んでいる大人たちは、一様に黒いフードに身を包み、顔を隠していた。みなフォリルよりも背が高く、彼のはるか頭上で、異国の言葉でぼそぼそとしゃべっている。これは、フォリルが物心ついた最初の記憶だった。当時はなすすべもなく、ただ一人、黒い服の集団の中迎えが来るのを待っていたはずだった。……今なら、彼らがどんな話をしていたのか聞き取ることが出来た。
『ほう、砂漠の部族の子どもだね。少し骨が細いようだが』
『運動神経は抜群だぞ、骨などこれからいくらでも太くなるし、物覚えも悪くない。ここまで来るのにもう言葉をいくつか覚えたみたいだ』
『言葉ったって、どうせ糞だの阿呆だの、ろくでもない単語だろ。……3000だね。口止め料として200。2800出そう』
『足元みやがって……』
『人攫いに言われる筋合いはないよ、さぁ、出て行った出て行った』
『この次のガキには5000もらうからな』
 

「だから、どうした」
 フォリルは顔色を変えない。そんな生い立ちなど、百も承知だったからである。
「もっと面白いものを見せてくれるのかと期待したのだが、無理な注文だったかな」
『な、なによ……』
「美味しくないか? 美味しくないだろう」
 お尻を両手で押さえるようにして、またモモが姿をあらわした。
「感情を殺しているものの思い出を食べても、どうせ美味しくないのだろう? 夢魔よ」
『……まっずいわよ、超おいしくないわよ!』
「こんな思い出なら、いくらでも喰ってくれてかまわぬ。なくしたところで、私の生まれが変わるわけでなし、それを知るものがいるわけでもなし。だが、一度口をつけたのだ。たとえ不味くても、残さず食べなければ許さんぞ」
 モモの顔が真赤になった。
「ほれ、どうした。早く食べないと毒が回ってしまうぞ」
『毒なんて効かないわ、たぶん』
 捨て台詞のように吐き捨てると、モモは最後にがしゃん、と鎌をふりかざし、そのままふっと姿を消した。灰色の雲が晴れてゆく。アフリートの姿はなかった。お尻にかみついたまま、夢魔の後を追ったようだった。
「逃げたか……あとは、オシアン殿に始末を負かそう」
 フォリルが崩れるようにソファに腰をおろす。
 その顔には、冷酷そうな笑みが浮かんでいた。


 そして、フォリルの前から逃げ出したモモの出現した場所は、もちろん自分の力が最大限に発揮できる灰色の空間の中だった。額からは、だらだらと脂汗がにじんでくる。
『もういや! 何よコレ〜、ついてこないでよぉ』
 《大陸》の生き物の毒なんかにやられる気はしない。それでも黒ネズミの牙だけは、猛烈な痛みとなって彼女に襲いかかっていた。どうすれば、この生き物を引き剥がすことができるだろう。
『……あ』
 灰色の空間の中に、たくさんの人間どもが入り込んでいる。あの生意気な男を捕らえた十字架の丘を、人間どもがめざしているのが分かる。彼らの思いのひとつひとつが、夢魔の肌にぞくぞくするような刺激となって、夢魔の本能を呼び覚ます。
 空間の一角には、あの砂漠の男が立っていた。モモはそれを避けるようにして、遠くにいる者から襲いかかることに決めた。あの男の前に立ってはいけないような気がした。それよりも、他にたくさんのえさがあるのだ。あれを相手にするのは最後にしよう。美味しくないし。


   オシアンの元にアフリートが戻ってきた。
「よくやった」
 つやつやした黒い毛をそっとなでてやる。アフリートの牙は、夢魔の思考に冷静さを失わせるに十分だった。ディルワースのフォリルは、計画どおりに動けたようだ。夢魔を相手にたいしたものだ。未知の敵、それが普通の命あるものではないのに、居すくまず戦えるとは、相当な修羅場をくぐりぬけてきた人間にしかできないだろう。
「……だからこそ、奏でられる名曲もあるのだろうにな。戻ることができればぜひ一度、その笛をの音を聞いてみたいものだ」  アフリートを腕に乗せ、オシアンは灰色の道を歩き出す。
 行く先は、決戦の場であった。かすかな歌声が、どこからか聞こえていた。


『美味そうなのをいただいて、力をためないと……』
 ひりひりしたお尻を隠しながら、夢魔は標的に決めたゴドに向かって襲い掛かる。ふわりと灰色の雲のかたまりを作り出すと、鎌でひっぱたいてゴドへと投げつけた。
『やーっぱり、餌は女の子のほうがいいわね。なんとなく』
 一瞬きらめいた鎌の輝きには、グレイのほうが早く気が付いた。サファイアの指輪をかざし、ごにょごにょと呪文を唱える。かつてエルムとゴドがくらった、《小さき死》の魔法だ。だが、灰色の雲にはもちろん効果はない。エルムは素早く棍を構え、雲を振り払うように大きく凪いだ。
「う……、ウチ……」
 ゴドはぺたんとしりもちをついてしまう。グレイが舌打ちした。
「ゴド、大丈夫ですか。枝、枝を……」
 うつろな目をして宙を見つめているゴドの手に、エルムはお守りを握らせた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 謝る言葉だけが、ゴドの口から漏れ続けている。エルムはそっと彼女を抱きしめる。


 山あいの、ディルワースにも似た景色。あたりで一番大きな集落の広場の前に、ゴドは引き出されていた。いつもは小鳥のさえずりが響く静かな里は、大騒ぎとなっている。
『おまえがやったのか!』
 ゴドのまわりには、人垣が遠巻きにできている。彼女は指をさされののしられていた。いかつい体格の里長が、ゴドをさげすむように見下ろしていた。二人の間には、割れた杯のかけらが転がっている。
「ウチが、やりました。ごめんなさい……」
 どうしてこんなことになってしまったのか。わけもわからず、ゴドはただ謝った。とにかく謝れば、この空気から逃れられると思っていた。
『里の神器の杯を弄んで汚したあげく、割ってしまうとは! この馬鹿者!』
 里じゅうに聞こえるような大声で、里長はどなりつけた。ますますゴドは縮み上がり、小さく小さくなろうとした。どうして、怒られるんだろう。ウチだけいつも、こんなふうになってしまう。人垣の中に混じっているだろう家族のことを考えて、ぽろりとゴドは涙をこぼした。
 兄弟は皆それぞれ得意なことを見つけていた。
 聡明で、早くから村を出て都の学校へと通っていた姉のラド。猟に出れば必ず獲物をしとめて帰ってくる、次期指導者になるはずの兄、ヤド。楽器と舞踊にたけている人気者、妹ミド。いずれも村の名家たるシシューの名にふさわしい。里人は彼らを日々ほめそやした。両親も例外ではなかった。
『どうしておまえのような子が、シシューの名に生まれついたのだろうな』
 父親の言葉に、幼いゴドは毎日おびえて暮らしていた。
 杯が割れたのは、不幸な偶然だった。ゴドはただ、神器に祈るようにして水を飲んだだけだった。たまたま、するりと杯がすべり、無残にも破片と化してしまった時、ゴドにはこれが夢だったらいいのに、としか思えなかった。悪い夢ならさめてほしい。目覚めれば、両親に兄弟と等しく愛される生活が待っていればいい。
『300年』
 里長の言葉は、まだ13にしかならない少女に残酷だった。
『向こう300年の間、里への出入りを一切禁ずる。日没までに荷物をまとめ、出て行くがいい』
「お父さん!」
『おまえなどシシューの子ではない』
「お父さん! お父さん! ごめんなさい、ごめんなさい……」


 枝のお守りをにぎりしめ、ゴドはぽろぽろと泣いていた。追い出されるようにして村を出た日の孤独を思い出し、そのときにはなかったエルムの温もりを背中に感じていた。
「ゴド」
 エルムはささやく。
「過去に何があっても、やがてそれは赦されます」
 おびえていた少女のふるえがとまる。
「グレイ、結界を狭めますよ!」
「けっ、地味だ。地味すぎるぜ」
 ごちつつもグレイは、サファイアの指輪を頭上にかざす。くるくる回転する光の円陣が、上からおりてきた。ふわりとあたりをサファイアの青い光が染め上げ、円陣が無遠大にふくらんだかと思うと、潮がひくようにすうっとその輪を狭めていく。
『きゃあっ』
 夢魔の悲鳴があがった。姿は見えねど、確実に夢魔の動きをとらえているようだ。
『いやーん』
 ついに隠れきれなくなって、夢魔はふりふりした姿を表した。狭まる円陣から逃げるように、あっちへ飛んだりこっちへ飛んだり、きゃあきゃあと騒いでいる。
「手伝ってください、ゴド」
 びくん。電流が走ったようにゴドの目に生気が戻った。
「嬢ちゃんはいいな、まだ思い出せることがあって」
 グレイが薄く笑う。
「……ありがとう」
 ゴドはすっくと立ち上がった。
『ふーんだっ!』
 あかんべをしながら、涙目の夢魔は唐突にまた消えた。
「おいおいおいおいおいおいおいおい!」
 グレイががつんとエルムを振り返る。
「これでいいのか! あのガキ逃げやがったぞ、こんちくしょう」
「追い詰めましょう」
 と、深く帽子をかぶりなおすエルム。

 夢魔を追うものたちは、十字架の丘へ向かう。

(4)へ続く


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